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『BOØWY』(ボウイ)は、日本のロックバンドであるBOØWYの3枚目のアルバム。 == 背景 == 1984年に入ってからも、BOØWYの活動はライブを中心に行われ、渋谷ライブインを拠点とするシリーズギグを実施、また全国をハイエースで回るライブツアーも4回実施するなど精力的に活動を続けていた。渋谷ライブインでは1200人を超す動員記録を達成し、その人気は音楽関係者にも知れ渡るようになり、様々な音楽事務所やレコード会社の関係者がメンバーと接触を持つようになる。 しかし、メンバーはかつて所属した音楽事務所やレコード会社との連携が上手くいかなかった事を懸念し、業界関係者に不信感を抱いていたことから積極的に話に応じることはなかった。その中でも、マネージメントを引き受けていた土屋浩はこれ以上の活動にはメジャーな音楽事務所やレコード会社との契約が必要であると考え、ユイ音楽工房(現:ユイミュージック)のプロデューサーである糟谷銑司とミーティングを重ねるようになっていく。 10月7日、氷室狂介の24歳の誕生日に行われたミーティングにおいて、メンバーはユイ音楽工房と契約することを決定した。それに伴い、移籍後の活動の準備の為に半年間ライブ活動を休止することとなった。 1985年に入り、BOØWYはユイ音楽工房との正式な契約を取り交わし、移籍先のレコード会社として東芝EMIが選定された。また、BOØWYにとって初の本格的なレコーディングを行うにあたり、佐久間正英にプロデュースを依頼することとなり、佐久間からはドイツのベルリンにある「ハンザ・スタジオ(ハンザトン・スタジオ)」でのレコーディングであれば了承するとの返答があった。メンバーを閉ざされた環境に置くことで、音楽のみに集中させる環境を作ることが目的だった。事務所側はその条件を受け入れ、BOØWYとして初の海外レコーディングが実現する運びとなった〔紺待人「ライナーノーツ」『BOØWY COMPLETE』、東芝EMI、1991年。〕。 アルバムタイトルは、再出発の意味も込めてバンド名の『BOØWY』がそのまま使われることになった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「BOOWY (アルバム)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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